小脳梗塞による体幹失調と視覚—「目」と「首」の再教育がもたらした変化

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今回ご紹介するのは、小脳梗塞を発症した70歳男性のリハビリテーション症例です。担当スタッフと一緒にケーススタディとして関わり、評価から治療、経過を通して多くの学びが得られました。主な症状は小脳性失調で、身体の動きが全体的に粗大であり、協調性が低下していました。加えて、足底の求心性入力にも障害がみられ、全身の運動制御が乱れている印象でした。

この方の動きを観察してまず印象的だったのは、立ち上がりや立位動作で重心のコントロールが極めて不安定であることです。例えば、座位から立ち上がろうとすると、重心が十分に前方へ移動する前にお尻だけが浮き上がってしまい、結果的に後方へ崩れるように立ち上がってしまうのです。みなさんも同じようなケースを見たことがあると思います。

立位になると、重心が大きく揺れ、支持基底面を何度も逸脱します。前後左右いずれの方向にも容易に崩れ、安定して姿勢を保つことができません。こうした特徴的な動きは、小脳性失調の患者さんにしばしばみられるものですが、改めて「重心を中心で保つことの難しさ」を感じさせるものでした。

動作分析の結果、COM(身体重心)の軌跡を確認すると、立ち上がり動作時にほとんど前方への移動がみられませんでした。通常、立ち上がる際には、体幹を前傾させることで重心を足部の範囲へ移動させ、そこから下肢の伸展で上昇していきます。ところがこの方の場合、重心が後方に残ったまま立ち上がるため、尻餅を着くような後方への転倒リスクが常に伴っていました。

私は、いつもと同じように「動かない部分」はどこかな、と探りました。小脳性失調が故に動かないどころか動きすぎてしまうために見つけるのが難渋しましたが、ふと話をしている時に、全く目が合わないことに気づきました。私は斜めにいて、そこから話しかけているのに、ずっと正面をみながら話をしています。そこで今回は、眼球および頭頸部の動きに焦点を当ててみることにしました。

皆さんは「前庭動眼反射(vestibulo-ocular reflex:VOR)」という言葉をご存じでしょうか。私たちは日常生活の中で、常に頭や体がわずかに動いています。歩行中、車の運転中、あるいは何かの動作を行う時にも、視線の向こうにある対象物を安定して見続けることができるのは、この反射機能のおかげです。

前庭動眼反射とは、頭が動いた方向と反対方向に眼球を微細に動かすことで、視線を一点に保つ働きのある反射です。頭や体が動いても、目の前の対象がブレずに見えるのは、この反射が瞬時に作動しているからです。

試しに、目の前に親指を立てて、その指一点を見つめたまま頭を左右に振ってみてください。視線は大きくズレず、対象をしっかり捉え続けるはずです。これを可能にするのが、脳幹から小脳にかけての精密な神経統合機能なのです。

今回の患者さんにこの機能を確認したところ、頭部を横に回旋させる動作を行っても、眼球が頭の動きと一緒に動いてしまい、対象を安定して注視できないことがわかりました。つまり、視覚情報が常に揺れており、私たちが当たり前に感じる「周囲が安定して見える」という感覚を体験できていない状態だったのです。

この点を改善するため、まずは眼球の安定化を目的とした練習を行いました。例えば、目の前の対象物を見つめながらゆっくりと頭を動かす練習や、視標追従運動(Smooth Pursuit)などを用いました。同時に、頸部の制御能力にもアプローチし、首が過度に固定化されないよう介入しました。

初期の印象として、患者さんは私たちと目を合わせることができない方でした。声をかけても、常に前方の一点だけを見続け、周囲への注意の切り替えが極めて困難でした。これは単なる意欲や注意の問題ではなく、「目を動かす能力そのものが低下している」ことを示していました。

特に小脳病変により眼球運動が制御できないと、視覚情報の安定性が損なわれ、それを補うために頸部も固めてしまう傾向が多々あります。この患者さんも首をほとんど動かさず、視線を一点に保とうとするあまり、全体の動作がさらに硬くなっていました。

そこで、眼球運動を誘導すると同時に、頸部の動きを引き出すように働きかけました。例えばリーチ動作においても、「目で目標を確認してから頭を動かす」「頭が動いたら体幹がついていく」といった一連の運動連鎖を再構築していきました。

ある日、「目と首の動き」に意識を向けながら立ち上がり動作を行ってみたところ、驚くべき変化が見られました。患者さんが目標方向へ視線を動かした直後、自然と骨盤が前傾し始め、結果として重心が前方へ移動したのです。今まで一切起きなかった重心前方移動が、わずかな眼球運動刺激によって誘発された瞬間でした。

その変化は私だけでなく、スタッフそして患者さんご本人にとっても非常に印象的なものでした。まるで、身体全体が「動く許可」を得たかのように、全身の連動が回復していったのです。

小脳は、単なる運動調整器官ではありません。感覚情報の統合、特に視覚・前庭・固有感覚の連携において非常に重要な役割を担っています。今回のケースでは、視覚の安定性を回復させることで、結果的に姿勢全体の制御が再統合されたと考えられます。さらにそこから派生して頭頸部が自由に動かせる範囲が拡大したおかげで前庭覚に過剰に入力された刺激の正常化にもつながったとも考えられます。

一般的に、リハビリでは「立ち上がり」「重心移動」「バランス」といった大きな運動課題に目が向きがちですが、動かない根本原因が「眼球運動の不安定さ」にあることも少なくありません。今回の経験は、その重要性を再確認する貴重な機会となりました。

この症例を通じて改めて感じたのは、小さな動きが全身に与える影響の大きさです。特に動かない部位がわずかに「動ける」ようになったとき、身体全体の連動性は劇的に改善します。まるで堰き止められていた水流が堰を切って再び動き出すかのようにです。これは神経生理学的なメカニズムに裏付けられた現象ですが、現場で体験するとその変化は目を見張るものがあります。

もし同様に、小脳梗塞などで眼球や頸部の動きが制限されている患者さんを担当されている方がいましたら、ぜひVORや視覚誘導性運動を評価・治療の一部に取り入れてみてください。視覚の安定性を取り戻すことが、身体全体の協調運動や立ち上がりの質を高める鍵となるかもしれません。


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