去年の話です。入職4年目の女性理学療法士(PT)が、突然、職場に来られなくなりました。
理由は「不眠」とのこと。夜、どうしても眠れない。 原因を探っていくと、そこには現代の若手スタッフが直面しやすい、切実な悩みが隠されていました。
今回は、一人の管理職として、一人のセラピストの先輩として、彼女が再び前を向くまでにどのようなアプローチを試みたのか。その記録を共有したいと思います。
1. 「自信を持って」という言葉が届かない理由
彼女は1ヶ月の休養を経て、なんとか職場に戻ってきました。休んでいる間はしっかり睡眠も取れ、少しずつ元気を取り戻したようでした。しかし、復帰した彼女の顔に、以前のような明るさは戻っていません。
私は、彼女とじっくり向き合って話を聞くことにしました。そこで彼女の口から発せられた言葉は、自己肯定感が極限まで削り取られたような内容でした。
「ある同僚から、自分のリハビリに対して否定的な言葉を言われたんです」 「自分が臨床をしている姿を他人に見られるのが、怖くて仕方ないんです」
彼女は、誰かが他人の陰口を言っているのを聞くたびに、「自分もあんな風に言われているんじゃないか」と不安になり、患者さんに対しても「私は質の低いセラピストだと思われているのではないか」という恐怖を抱えていたのです。
かつての私は、こんな相談を受けた時は決まってこう言っていました。 「そんなことないよ、大丈夫。もっと自信を持って!」
しかし、この言葉が彼女をさらに追い詰めることを、今の私は知っています。根拠のない「大丈夫」は、根拠のない「不安」に勝つことはできないのです。
2. 陰口をなくすよりも、「心」を強くするアプローチ
当初、私は環境改善を考えました。陰口を言う先輩たちを指導し、ネガティブな言葉を排除しようかと。しかし、すぐに思い直しました。
人の口に戸は立てられません。組織から陰口を完全にゼロにすることは不可能に近いし、仮に今の職場でそれが実現したとしても、彼女がこの先の人生で出会う「理不尽」や「批判」をすべて消し去ることはできないからです。
私が目指すべきは、彼女を取り巻く環境を無菌状態、スタッフを清廉潔白な人間たちににすることではなく、彼女自身が「ちょっとやそっとでは傾かない強い心」を持つための手助けをすることだと考えました。
これからの人生、彼女は何度も困難に直面するでしょう。その時に、誰かに守ってもらうのではなく、自分の足で立ってほしい。そのためには、抽象的な「自信」ではなく、確固たる「技術的裏付け」が必要だと確信したのです。
3. モチベーションの正体は「ルート」が見えること
ある本に、こんな一節がありました。 「モチベーションが高まる時とは、困った時に『こうすればうまくいくはずだ』という解決へのルートが見えた時である」
彼女の話を深く掘り下げてみると、一つの事実が見えてきました。 彼女は決して不真面目でも、勉強不足でもありませんでした。むしろ逆です。患者さんのことを深く考え、細かく観察し、「どうにかしてあげたい」という強い情熱を持っていました。
しかし、決定的に欠けていたものがありました。それは、「どうすれば良くなるのか」を導き出すための思考のプロセスです。
理学療法には「これをやれば100%治る」という正解はありません。大切なのは、
- 目の前の現象から仮説を立てる
- その仮説が正しいかを一手間加えて確かめてみる
- 変化の有無を確認し、仮説を検証する というプロセスです。
彼女はこの「考え方の地図」を持っていませんでした。地図がないまま暗闇を歩いているから、誰かの一言に怯え、迷子になっていたのです。
4. 料理のレシピのように、臨床を可視化する
私は彼女に、理学療法の思考プロセスを図式化した1枚の紙を渡しました。 「これは、料理のレシピみたいなものだよ」と伝えてみました。
「まずはこの手順通りに、一つずつ確認してみよう。結果が出なくてもいい。このプロセスに沿って考えられたなら、それはプロとしての仕事だよ」
その時の彼女の表情は、どこかホッとしたように見え、目から涙が流れていました。悲しいわけでもなく、嬉しいわけでもない、言葉にできない感情からくる涙のように思えました。どこかホッとした涙だったかもしれません。 「頑張れ」と言われるよりも、「この通りにやってごらん」と言われる方が、今の彼女には救いになったのでしょう。
私たちは今、このレシピを基に、実際の患者さんへの介入を一つずつ振り返っています。自分の力で分析し、仮説が当たり、患者さんの体が良い方向に変化する。この「成功体験」の蓄積こそが、何物にも代えがたい「自己肯定感」へと変わっていくはずです。
5. 「会話の卓球」が、真面目な部下を救う
もう一つ、私自身が深く反省したことがあります。それは彼女とのコミュニケーションの取り方です。
彼女のような真面目なタイプは、相手の言葉をすべて完璧に受け止めようとします。私が熱意を持って矢継ぎ早にアドバイスをすればするほど、彼女の脳内では言葉が渋滞を起こし、処理が追いつかなくなっていたのです。
そこで今、私が意識しているのは「小学生のピンポン(卓球)」のような会話です。
- ゆっくりと、一球だけ投げかける。
- 相手が打ち返してくるのを、じっくりと待つ。
- 返ってきた球を、また優しく、ポンと打ち返す。
言葉を詰め込まない。沈黙を恐れない。 彼女が自分のペースで言葉を解釈し、咀嚼する時間を保証する。これだけで、彼女との対話は驚くほどスムーズになり、彼女自身の言葉に力が宿るようになりました。今振り返ってみると、その時以来、向こうから良く話しかけてくれるようになった気がします。
6. 若いうちに「小さな失敗」をたくさんしてほしい
最後に、彼女だけでなく、すべての若いセラピストに伝えたいことがあります。 それは、「若いうちに、クビにならない程度の小さな失敗をたくさん経験してほしい」ということです。
- ちょっと恥ずかしい思いをした。
- 自分の説明不足で患者さんを困惑させてしまった。
- 自分の技術不足を痛感した。
こうした経験を自分の力で乗り越えてきた人は、40代、50代になった時に強い余裕が生まれます。逆に、失敗を避けて通ってきた人は、年齢を重ねてから困難に直面した際、他人のせいにしたり、精神的に不安定になったりしやすい印象です。
「あ、このパターンなら、こうすれば大丈夫」 そう思える「引き出し」の数は、失敗した数と同じです。失敗は敵ではなく、未来の自分を守るための資産なのです。
結びに:短所は、いつか長所にひっくり返る
彼女の「人の目を気にする」「真面目すぎる」という性質は、今は「生きづらさ」として現れています。しかし、マネジメント次第で、それは「患者さんの微細な変化に気づく」「誠実に治療に向き合う」という、セラピストとしての最大の長所にひっくり返ります。
彼女がいつか、後輩に対して「私も昔は眠れないくらい悩んでいたけれど、このレシピのおかげで救われたんだよ」と笑って話せる日が来るまで、精一杯サポートしていきたいと思います。
そして彼女の隣で、ゆっくりとピンポンの球を打ち返し続けたいと思います。 管理職の仕事とは、部下の代わりに壁を壊すことではなく、部下が壁を乗り越えるための「道具」を渡し、その背中を信じて見守ることなのかもしれません。
最後に
この記事が、同じように部下の育成に悩む中間管理職の方や、自信を持てずに悩む若手セラピストの方にとって、一筋の光になれば幸いです。

